京都で生まれた九九!

  

みなさんこんにちは、最近は脳トレブーム等で中高年がニンテンドーDSなど片手に計算問題を

電車のなかでされている風景をよく目にします。

計算と言えば九九!ちょっと今回は京都薀蓄(うんちく)をおひとつ!

日本人なら誰しもが小学校でで習う“ににんがし、にさんがろく”というあの【九九】

実は京都で産まれてたんです。正確には中国から伝わったのですが、

日本の歴史書物で明らかにされているのは970年 源為憲が作った子供用教科書『口遊』に登場する

のが最初だそうです。

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これは平安時代に藤原為光の長男7歳の松雄おぼっちゃまの為に作られた教科書でもあり

当時の貴族貴公子いわゆる一部の上流階級の子供たちはかなりのハイレベルな教育をしていたことに

驚かされます。内容的には全て漢語によるもので九九の章は我々にもわかりやすく

「九九八十一、九十八七十二、九七六十三、九六五十四・・・・」と読めるそうです。

このように順序が現代とは逆で平安時代は九の段から小さい数字へとおりてきたのだ。

だから始まりをとって「九九」と言われ始めました。

ではいつから現在の「ニニンガシ」に変わったのでしょう。

  それは寛永4年(1627年)京都嵯峨に生まれた

 数学者吉田光由(1598-1672)の有名な数学書『塵劫記』(じんこうき)の

 初版本で紹介したのが始まりであります。

 

現在我々がお世話になっておる九九は江戸時代の初め吉田光由の手によって京都に生まれたことになる。

 この『塵劫記』と言う本は当時の社会に大きな影響を与え日本最初の理系書ミリオンセラーに

 なったともいえます。この『塵劫記』の内容もわかりやすく面白おかしく組み立ててあります。

  

「米一石についてその代銀が二十六匁五分の相場であるとき米一二三石の代銀がいくらか」

「三四五石の米を貸すその間の利率は二割六分とすると元利合わせていくらになるか」

「絹一反は長さが二丈八尺である。一反の代銀が三十目であれば一丈八尺の代はいくらか」

こんな問題が並びそして答えがあり、そして説き方が説明されている。

江戸時代の京の庶民の生活に密着して問題が選んである。

やがて『塵劫記』は京のみならず全国津々浦々日本人の必読書となった。

士農工商誰もが使え何処に行ってもそろばんと『塵劫記』があるという具合で広まって行ったそうだ。

『塵劫記』は寛永十八年(1641年)まで約10年間版を重ね刊行された。

こうして日本人に和算の素養が根付いていったと言える。

現代の義務教育と当時の九九一つにとっての社会的実用度と比べてもやはり当時の教育はすごかったと

改めて思わされます。(田村)

                             参照 『それは京都ではじまった』 黒田正子著

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