町風呂と言えば、皆さんは銭湯を思い浮かべられるでしょう。

最近数は少なくなってきましたが、まだまだあちらこちらに存在する京都銭湯の由来についてのコラムです。

そもそも銭湯の歴史は意外と長いのです。古くは「栄華物語」「今昔物語」より京都に公衆浴場があったようであります。

本格的に存在しはじめたのが、応仁の乱(1467〜77)東西両陣にわかれて続いた戦の頃になるのですが、これがまた面白く日暮れで戦が一旦終わると皆こぞって町湯、町風呂に出かけたそうであります、休戦日には敵、味方お風呂で出くわすこともあったそうで敵味方湯場で談笑したとか、今では到底考えられませんが・・・

京都に町風呂、町湯が増えたのは丁度この応仁の乱以降でして営業開始時刻になると町のあちこちでホラ貝や角笛が鳴り響いたそうです。

当時、庶民だけでなくお公家さんにもお風呂は流行でお公家さんには専用の「止湯(とめゆ)」「合沐(ごうもく)」という貸切の入浴制度があって「一条の風呂」とか「正親町の風呂」など神事の沐浴に用いられたそうです。

さて、タイトルにもあります町風呂と町湯
何が違うのでしょうか?これも当時から区分けがしてありまして「風呂」はく蒸し風呂のことを指します。いまでいうサウナですね!熱風で体を蒸し発汗させた後室外に備えたお湯で体を洗う「八瀬のかま風呂」でしられるように壬申の乱以来の歴史をもつものともう一つは釜で沸かした湯を湯ぶねに引いたり汲みいれたりした町湯です。当時大きな湯ぶねになみなみとお湯を張るなどは容易ではなかったために大きく庶民の為に貢献したのしょう。今でも京都の銭湯には「湯」という看板はあがっていても「風呂」と書かれる看板が少ないのは当時からの呼称の伝統を受け継いでいるからです。

この銭湯文化は江戸時代にわたり浮世絵などにも見られます江戸風俗の人気を二分した湯女の誕生へと発展していくわけです。

余談ですが、湯女は、歴史的には戦国時代、戦場から戻った武将の荒んだ気持ちを少しでも和らげるために、入浴時に女性に世話をさせたのが始まりでした。

いつしか一般化して流しから髪結い、衣服の面倒、それ以上の“お世話”までする、湯屋には欠くべからざる存在となりました。

 またまた余談になりますが、江戸時代のファッションリーダーは、1に遊女、2に湯女、3、4がなくて5に茶屋娘、別格で歌舞伎役者というのが、人気の中心だったようです。

 湯女にも相当の美女が揃っていたと言われ、吉原の太夫の向こうを張った有名な湯女もいたようです。

京都市北区船岡温泉
話はそれましたが、以上のように京都のお風呂の歴史は長くやはり京都、日本文化の発祥の地であり江戸、大阪とは全く違った超越した確固たる文化が今もなお継承されていることに驚かされます。

皆様お時間がございましたら大人350円でございます、たまにはご近所の銭湯もいいものです。

妙心寺 明智風呂→
京都の銭湯MAP

参照『京都の不思議』 黒田正子共同浴場風俗史

〒602-8275 京都市上京区革堂前之町110  

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ロマンチックタイム  田村ふとん店
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